2009年03月26日

演劇集団「ハーフセンチュリー宮森」

演劇集団「ハーフセンチュリー宮森」
QABより


うるま市の宮森小学校にアメリカ軍のジェット機が墜落し、児童など200人余りが死傷した事故から今年で50年。
宮森小学校への私の足取りは重い。
写真の切れ味がさえていればいるほどしだいに足取りは重くなる。
当時の怪我の傷を映像化した平良孝七さんの写真が頭をもたげる。
しんどいドキュメンタリーになる・・・。
沖縄戦の傷も癒えぬうちにカサブタのように基地が島を占領していく。
カサブタならいつかは癒える?
(写真で心の傷を見せる必要があるのか?)
基地があるということは日本とアメリカの歯車によって沖縄を延々と踏みにじる。
本土の人たちの中には、本当に基地が無くなってもいいんですかと言う方もいる。
基地があるゆえに受けている恩恵をちらつかせながらも沖縄を日本の防衛の盾にしている。
かの沖縄戦と同じなのだ。
お金で何でも解決できるというのだろうか。



アメリカ軍のジェット機の墜落事故現場の当時の担任教師の言葉がずしりと心に残る。

彼女は(事故のことを)忘れてほしくないと言う。
事故の惨劇を語る彼女は、長年の沈黙と苦悩を語る。
私たちが事故の被害者たちの心の苦悩を実感させれなかったのは何故か考えねばならない・・・。
結局何か事件・事故が起こったときだけ感情的になって行動しようとしても国家の厚い壁に遮られてあきらめてしまう。


しかしこの演劇集団「ハーフセンチュリー宮森」の活動には目を見張るものがあると思った。
正直沖縄問題の重たさからくるある種の卑屈さやあきらめムードがない。
未来の明るさを彼らは、きちんと次世代に受け継ごうとアクションしている。
何か励まされたような気がした。
もしかしたらいつか世界の人たち一人一人へ平和のウェーブができるのではないかと信じたい。

演劇集団「ハーフセンチュリー宮森」

当時死亡者が出たクラスの担任 は語る







演劇集団「ハーフセンチュリー宮森」
= http://halfmiyamori.ti-da.net/




同じカテゴリー(沖縄ケセラセラ)の記事
高江に愛を!
高江に愛を!(2012-12-23 01:19)

野だけ なう!
野だけ なう!(2012-12-20 12:38)

市民駐車場の閉鎖
市民駐車場の閉鎖(2012-12-20 12:09)

高江なう!
高江なう!(2012-12-13 16:09)

トイレの閉鎖
トイレの閉鎖(2012-12-12 17:39)

一休軒
一休軒(2012-12-10 10:55)


Posted by とよチャンネル at 20:27│Comments(2)沖縄ケセラセラ
この記事へのコメント
2009年03月20日 (金曜日)

Qリポート 宮森小米軍機事故 事故がいまに伝えること


うるま市の宮森小学校にアメリカ軍のジェット機が墜落し、児童など200人余りが死傷した事故から今年で50年。その悲劇を風化させまいと演劇公演を企画している若者たちがいます。 舞台を通して何を伝えようとしているのか、取材しました。

子どもたちと一緒にダンスの練習に励むのは今年5月に演劇公演を計画している「ハーフセンチュリー宮森」のメンバーたち。うるま市在住の20代の若者たちを中心に結成されています。

ハーフセンチュリーのメンバー「次の世代に語り継いでON:舞台を通して、宮森のことをとおして、平和を発信していけたら」

彼女たちが演劇で取り組むのはー 「管制塔:燃料が大量に漏れている管制塔:脱出せよ、脱出せよ!」

1959年6月30日。嘉手納基地から飛び立ったアメリカ軍のジェット戦闘機がエンジントラブルを起こしパイロットは脱出。無人飛行を続けたジェット機が小学校に突っ込みました。児童11人を含む17人が死亡し、212人が焼けどなどの大ケガをしました。

今から10年前、QABの取材で明らかになった事故の原因は「整備不良」。人為的なミスが招いた事故でした。

当時の6年生・新田さん「ものすごい音がするんですよ、ふと外を見たら、真っ赤な太陽があるんです。見た瞬間、爆発音です。僕は戦争かと思いました。」

メンバーたちは劇に取り組むのにあたり、当時の教師や児童たちから聞き取り調査を行っています。

当時の教頭・比嘉さん「向こうの校舎にぶちあたって、子どもたちが爆風ではねられて机の下敷きになっている。」

当時の教師・新里さん「2年生の教室の前から、子どもが火だるまになって出てきた。髪が燃えて、洋服が燃えて、最後にパンツの紐がジリジリと燃えていく。」

50年も前の事故の様子を昨日のことのように生々しく振り返る体験者たち。中でも衝撃的だったのは遺族が語ったわが子との別れの場面でした。

喜納福常さん、秀子さん夫妻「病院に行ったら、子ども捜したら、真っ黒けでお腹のバンドゴムしか残っていなかったわけですよ。そこだけ白くて。私はそれを見て気絶してしまったんですよ。」

喜納福常さん、秀子さん夫妻は二男の常次くんを亡くしました。全身に大やけどを負い、苦しい最期を遂げたわが子を思い、父親の福常さんがとった行動は想像を超えるものでした。

秀子さん「もう、火葬はしなかったですね。一度焼かれたからかわいそうで。火葬しようというけど、この人が焼かれているのに、また火葬するかと反対したんですよ。」

ハーフセンチュリーメンバー「痛みというのは私自身にはわからないことかもしれないけど、考えることで、伝えていくことで何か、自分たちがやるべきことをしっかりと考えていって」「親が子どもの話を生きていたらこうだろうなとか、この子はいい子でねと話すのを聞いていたら、苦しくて。こういうことは絶対に起きて欲しくないという思いで、前より強くなったので、それを表現できないかなと」

遺族にとっては忘れたい、けれど決して忘れられたくない記憶。しかし長い年月のうちに風化しているのも現実です。彼らの思いをどう汲み取り、未来に生かすか、演劇公演に挑戦するメンバーたちは話し合いを重ねています。

ハーフセンチュリーメンバー「ときを経ても子を思う親の気持ちは当時と変わらないし」「島から出発し、島からジェット機が出て行く現実を、基地があるゆえにということを、どこかの場面で入れないと」

ハーフセンチュリー宮森の舞台は5月30日から。この舞台を「いまの沖縄を見つめ、平和を考えるきっかけにしたい」とメンバーたちは考えています。
Posted by とよチャンネルとよチャンネル at 2009年03月26日 20:30
宮森の悲劇忘れない 惨事から50年演劇集団発足2009年3月16日琉球新報
宮森小米軍機墜落事故の劇上演を発表する演劇集団「ハーフ・センチュリー宮森」と石川みほそ歌の会=15日、宮森小学校
 【うるま】宮森小学校への米軍機墜落事故を風化させまいと、事故から50年の今年、若者が集まって演劇集団「ハーフ・センチュリー宮森」を発足した。犠牲者の遺品や証言集を展示する平和資料館「宮森630館」に賛同し、遺族の聞き取り調査も始めている。15日、同小で会見したメンバーの宜野座映子元教諭らは「いまだに事故のことを話せない遺族も多いが、記憶を埋もれさせてはいけない。劇の形で事故を知らない世代に伝えたい」と話した。
 劇は「肝高の阿麻和利」メンバーと宮森小の児童が出演し、1991年の33回忌の際、石川高校で追悼劇を上演した宜野座さんが指導する。
 会見には630館への資金造成に協力する石川みほそ歌の会(西原洋子会長)も出席した。当時、中部農林高3年で、事故直後の慰霊祭に出席した池原光雄さんは「校舎が焼け、運動場で花を手向けた。皆うちひしがれ惨めだったことを覚えている」と涙をぬぐった。
 自身も同小2年の時に事故に遭遇した平良嘉男校長は「学校には事故の記録は何もない。二度と事故を起こしてはならないことを教えるためにも多くの人の協力はありがたい」と話した。
 みほそ歌の会公演は22日、同市石川会館で。問い合わせは(電話)098(964)2325。
Posted by とよチャンネルとよチャンネル at 2009年03月26日 20:34
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。