2011年01月11日

種田スガルの世界(『超新撰21』を読む):豊里友行

『超新撰21』の応募作品から登場した種田スガルという新星をざっと読む。
村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』の読後感というか歯応えに似ている。
俗的な言葉もよく飛び交う。

標本になる草食男子の数や どこまでいけば美味

「草食男子」とは昨今流行の言葉で草食系男子。
その反対語なら肉食系男子といえば想像しやすいだろうか。
生きるのに大変な時代といわれる中で女体を捕っては食らっていた男どもはなりを潜める。
スポーツ感覚といわれたSEX(性)を男女ともに享楽していた時代(今もあることはあるが・・・)。
自分自身の性をどう捉えていくかはそれぞれの価値観であるが私は自分の性を消費などしたくない。
ということで種田スガルとは生き方・考え方の違いがあるからと切り捨てられるか。
私としても性を消費する恐ろしさも甘美もわからなくもない。
草食男子なる標本を集める恍惚感。
性を食する感覚には、若い世代との道徳観の違いもあるにしろ咲き誇る性という花に蝶が舞うような性から生への衝動的の優美さがある。
だが「どこまでいけば」という語に女性のカオスと焦燥を感じつつも「美味」を消費する感覚を俳句という文学において定着させていて現代を詠う種田スガルの世界を見たように思える。
私は人生を豊かに生きていく為には、性という花へ炎のように舞い上がる蝶となり得る時期を持つべきだと思う。
だが私は、このいくつかの句が性をテーマにしつつもはかなさを孕む時代性を見る。
はたして性は愛へと成熟する果実以外の何物でもないのか。
古今東西のさまざまなジャンルの物語において恋愛が題材となり得るとき、このそこはかとないカオスが首をもたげる。
性の質が違うものの短歌の世界の俵 万智の『サラダ記念日』のような表現世界が、現代社会を昇華させ得る世界を種田スガルによって表出できないかと期待してしまう。
消費する・消費される「性」においても心の表現には、確かに文学の持ちうる人間の核心へと迫るもの方向性がある。
ただ例えるならルーブル美術館の作品を一度みて消費し尽せるか。
また見てみたい衝動に駆り立てる芸術作品になり得るには、その人間の核心へと迫る方向性を獲得すべきではないか。
つまり消耗品としての俳句作品を超えていく必要がある。
高山れおな氏の種田スガル小論「発狂と発情」において触れられている「二十一世紀女子自由律」とでも言えようか。
現代女性の社会進出を見るとき、俳句界においても肉食系女子の登場は必然的かもしれない。
スポーツ感覚といわれたSEXも消費社会によって昇華される愛へと成就(?)できるかなどを、はたして炎のように乱舞する蝶は意識するか愚問に等しい。
種田スガルは、種田スガルとして咲き誇る性の炎に昇華すべき蝶であってほしい。
個性の開花が時として時代性を孕みうることを私は、村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』に嗅ぎ取るように種田スガルの世界にも開花しそうに予感する。

母の慈愛降り積もりて 発狂す多摩川べり

種田山頭火の俳号から体内の血筋の川を流れる自由律の世界を奇しくも引継いでいるようでもある。
とはいえ俳句に染まっていないこの俳人は、どうやってこれからの自身の表現世界を確立し生きていくのだろうか。
生きるということに密接に繋がる性を題材にしつつも時折見え隠れする生のカオスの深層の海へ潜り込む作者に私は期待する。
俳句という檻をその生のカオスの深層の海へと沈めてしまえ。
種田スガルの世界の船出にまずは乾杯の盃を上げたい。



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